赤穂緞通は、中村(現赤穂市中広)に住む児島なかが、夫と高松へ旅行中に購入した中国の万暦氈(ばんれきせん)に触発され、これを錦糸で模造、営業化することを思い立ったことから始まります。当初なかは、こたつの櫓(やぐら)を倒して機とし、長さ5寸幅3寸(約150cm×約90cm)の小片を織りました。そして二十数年間に及ぶ試行錯誤の末に織成を成功させ、赤穂緞通を明治7年に商品化しました。
児島家は明治19年、第二回関西府県聯合共進会で5等褒賞を受賞したのをはじめ、明治21年には「児島松之助(なかの摘孫)の緞通は実に精巧のものといわざるを得ず、しかるその価の廉ならざるは欠点というべし」という評価を受けており、その品質が優れたものであったことがうかがえます。
明治20年代以降、製作の中心は新浜村(現赤穂市御崎)に移ります。なかは早川宗助に緞通の技術を伝授し、緞通場(だんつば)と呼ばれる工場で、塩田の女たちが浜仕事をこなしつつ緞通を織った。赤穂緞通は昭和13年頃まで同村の6つの織元で製作されました。しかし、昭和13年に錦糸不足のため赤穂緞通製造を停止しなくてはならなくなり、平成3年には新浜村にあった織元6軒のうちの最後、西田緞通も閉鎖しました。
現代の赤穂緞通
第二次世界大戦を境に多くの緞通工場が閉鎖となりましたが、最後の織元で大正生まれの織り子が守り継いできた技を途絶えさせないためにと、平成3年に赤穂市教育委員会が赤穂緞通織方技法講習会を開講したことが現代に赤穂緞通が復活したきっかけです。この講座の修了生22名により、平成11年赤穂緞通を伝承する会が結成。現在は織成および伝承活動を行っています。赤穂緞通を伝承する会が製作した赤穂緞通は、かつて織られていた様々な文様の赤穂緞通を収集し、1文様ごとに目数を拾い図面を起こすという地道な作業によって復元、製造しているため、大変貴重なものとなっています。
明治、大正は高級織物として好まれて全盛期を迎えた赤穂緞通ですが、今では赤穂の伝統工芸品として見直されています。
赤穂緞通と赤穂化成
赤穂の塩づくりは、1600年頃赤穂藩が、石積の入浜式塩田の開拓を始めて、大規模な塩田となり、「にがり入の赤穂の塩」の名を拡げ、瀬戸内十州塩田の牽引役としての地位を築きました。現在は、製法こそは変わりましたが、その流れを継承した企業が続いています。赤穂化成株式会社もその一つで、赤穂東浜塩業組合の技術を引き継いで、設立されました。
赤穂緞通は明治時代から大正時代にかけて隆盛をしてきましたが、その労働力の織り子たちは塩田作業に従事していた子女たちが中心でした。赤穂化成株式会社の創始者の1人である西田氏は、戦後、赤穂市内で最後まで赤穂緞通を製造していた西田緞通工房と深い関わりがありました。赤穂緞通工房がすべて廃業となり、技術が途絶えましたが、赤穂市教育委員会による「赤穂緞通織り方技法の講習会」が企画され技術の伝承がおこなわれたのです。講師を務めたのは、西田緞通工房の最後の織り子さんです。赤穂化成株式会社は、講習会により技術を習得した作家達の熱意と赤穂市の伝統工芸品である「幻の赤穂緞通」を復活したいという思いで取り組んでいます。