赤穂緞通について

緞通は、屋内敷物用織物のうち、手織りのものを指します。中国語で毛織の敷物や掛け物を指す『毯子(タンツ)』が変わって『緞通』となったものです。毯子は地糸に様々な毛を結びつけ立毛にし、それに各種の色糸を織り込んで模様を作り出す。ペルシア絨毯などがそれに該当します。
近世になると、欧州などで広く使用されていた絨毯が、イギリス・オランダ東インド会社の手により長崎へと持ち込まれ、幕府・各藩への献上品、大名の贈り物として使われました。
絨毯は、亜熱帯であり、湿潤で植物繊維の木や紙、畳を使った生活をする日本国民には、必ずしも必要ではありませんでした。しかし日本人は緞通を茶室や床机など室内の部分的な敷物に用途を見出すこととなりました。

幻の緞通、赤穂緞通

イギリスやオランダから伝搬された絨毯という文化は、まず九州地方に取り入れられ、その後東へと伝わって行きました。そして幕末には、その製作技術が赤穂へ伝わり、赤穂緞通の歴史が始まります。

『赤穂緞通』(兵庫県)は、鍋島緞通(佐賀県)、堺緞通(大阪府)と並び、日本三大緞通と呼ばれるようになりました。
中でも『赤穂緞通』は、他には無い “筋摘み”、“地摘み”、“仕上げ摘み”という独自の工程があり、織った糸の先を鋏でカットし、文様を際立たせます。そのため、長年使用しても文様の型崩れがしにくいという利点もあります。

緞通の素材は、日本の気候風土にあっているのと、兵庫県播州地方が綿花の産地であったことから、綿が使用されていました。(好みで羊毛や絹で織られたこともあります。)赤穂緞通の図柄は縁起の良い瑞祥文様が多く、京都の花人、茶人、豪商らに好まれてきました。また祇園祭には、屏風を置く敷物として、一畳敷きの緞通が何枚も敷き詰められたり、それ以外でも天皇御召列車や東宮御用船用敷物、枢密院玉座の敷物として使用されてきました。
昭和13年頃は綿花の供給が不足し赤穂の織元は製造停止に追い込まれましたが、戦後 まもなく2軒の織元が再開しました。しかし産業の近代化の流れに、機械化のできない『赤穂緞通』の織元は数年で廃業となり、『赤穂緞通』の織り方が途絶えることになるのです。『赤穂緞通』が幻と言われる所以はこのような歴史をたどっているわけです。平成3年に赤穂市の尽力により「赤穂緞通織り方技法講習会」により技術の伝承がおこなわれ、今ここに蘇ったのです。

祇園祭で飾られた赤穂緞通
撮影協力:藤井絞(株)
出典:赤穂市立美術工芸館 田淵記念館発行 企画展図録赤穂緞通Ⅱより

赤穂緞通の特徴

提供:田淵幸子氏
出典:赤穂市立美術工芸館 田淵記念館発行 企画展図録赤穂緞通Ⅰより

赤穂緞通は握り鋏1本で、根気を必要とする『摘み』が特徴です。特に『筋摘み』と呼ばれる文様の輪郭に溝をつけ、柄を浮き出させる作業には熟練した腕前が必要になります。厚さを均一にする『地摘み』とともに何度も繰り返す手の込んだ摘みは、まさに芸術的とも言えるでしょう。このようなことから一人前になるには数年の経験が必要といわれています。

赤穂緞通はオーダーメイドで1人の織り子が織り上がるまで務めなくてはなりません。製作期間も3カ月~6カ月と時間はかかりますが、和のしつらえ、洋のしつらえともにあう、伝統工芸品です。
赤穂緞通は縁起の良い瑞祥図柄が多く、「亀甲」、「雷雲」、「福寿」、「牡丹」、「蟹牡丹」、「利剣」「鳳凰」など“家の繁栄”、“邪気のお祓い”などの意味から、人気も高く、京都では古緞通として販売されています。
今は敷物として使われるだけでなく、壁の装飾や床の間の飾りとして使われる場面も多くあります。

手作業で織っていく赤穂緞通は時間もかかり高価なものですが、昔から、京都祇園の料亭、旅館、事始めなど、“おもてなし”として使われてきました。ご家庭の新しいライフスタイルに、大切な人をもてなす時に赤穂緞通がその思いをきっと伝えてくれるものと信じています。